• 小宮山剛

そうさ気持ちはバーテンダー

10月23日、僕の職場である椎葉村図書館「ぶん文Bun」には多くの視察があった。どれくらい多くの視察があったかというと、こうして自分のブログ文章を書き始めるにはいささか忙しさに過ぎ、一方で合い間合い間に少しずつ他人の文章の校正をすることで約4,000字くらいの記事を校了まで持ち込むくらいの時間があったというくらいだ。つまり、僕のブログはこうしてずっと後回しにされている。


どれくらいの間僕のこの可哀そうなブログが後回しにされてきたかというと、慮ることなく僕の心情を吐露させてもらうとするならば、5年くらいは更新していないのではないかという気がする。しかしこうした時間感覚の誤謬は往々にして起きうることだしこの場合ももちろんそうした卑しいケースの一つであり、そもそも5年前の僕はこのブログを始めていなかった。僕はまだ、静岡に住んでいたと思う。


前回前々回のブログ記事は、僕としては「書いた」というに及ばない記事だ。じゃあなぜブログ記事をアップしたのかと言われると返答に窮するのだけれど、そうすると僕は「コンテンツを埋めるためです」という、どこか哀しく現代的かつ資本主義的な答えを細々と漏らすほかないだろう。それらはブクログの文章をコピーしたものであったり、Facebookの文章をコピーしたものであったりという、5歳になったばかりの男の子に飽きられ「ほかされた」玩具と同じくらいに侘しい文章なのだ。


僕はもうそんな文章は書くまいと決意する。書くまいと思うまいと思わざるまいと皆さんの生活には何の支障もあるまいが、僕は今こうして書くまいと決意するのだ。そういえば僕は、ずっと前にマイちゃんという女の子のことがずっとずっと好きだった。こんなことを言うと全世界あらゆる時代のマイという名前をもつ人たちが、おそらくは元巨人軍のマイコラス投手までもが「あたしのことかしら」というトキメキを湧き起こさずにはいられないだろう。


「いったいこの文章はなんのためにあるんだ」
「何が言いたいんだ?」
「俺は何を読まされてるんだ。これじゃまるで、野球を観に来たのに水泳を見せられているようなもんだ」
「結論は?」
「君は何の話をしたいんだ?」
「マイちゃんって誰だ?」
「こんなことをして誰が幸せになるというんだい?」

・・・いろんな声が聞こえてきそうである。いやもう、既に僕の耳元でこうした声の残響が聞こえている。残響があるということはどこかに「音叉」があるはずで、僕はもう取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づく。まるで不動の動者が間違えて最初のデコピンを空間とも言えない空間にはびこる物質とも言えない物質に喰らわせてしまったみたいに、本来は週休5日制の2日労働とすべき1週間を神様とも言えない神様がまったく逆の労働基準に仕立てて世界を構築してしまったみたいに、僕は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。


「そうさ気持ちはバーテンダー」


・・・いったい何を語ろうというのだろうか。いったい僕はこれからどんな文章を書くつもりだったのだろうか。最初は、たぶん、慮ることなく正直な気持ちを吐露させてもらうならば、すぐにも図書館司書としての仕事の「楽しさ」みたいなことを書こうとしていたはずだ。


それがどうだ、この有様は。まるでボストンに着いたと思ったらカリフォルニアに着いちゃいましたとか、門司港に着いたと思ったら稚内でしたとかいうような、そんな風な予定不調和がこのブログには満ちている。というのも、悪いのは僕が「前回いつブログを書いたんだっけ」と、ちょっと前のブログを遡っちゃったことだろう。


前回のブログ「意志あるところ本あり。」は、我ながらよく書いていた。ちょうど一カ月前に書いた文章から学ぶことは多い。それは僕自身でありながら僕自身の「一カ月前の先輩」であり、そこには過去の僕自身が未来の僕自身としての今の僕自身になにがしかを伝えてやろうという気概というか意志じみたものが生まれている。そうだ、僕は何かを未来に残したくてこういう文章を書いているのだ。「意志あるところ本あり。」にはこう書いてある。


この棚をつくるとき、あるいはぶん文Bunを立ち上げるための選書をしているときに気づいたのですが、何らかの意志を本で表現しようと考える時、探してみれば必ずその意志を表現するための本がみつかります
まさに「意志あるところ本あり」なのです。

なるほど。


・・・どういう意味だっけ?


・・・


・・・なるほど、つまり「何らかの『したい』という行為・計画・願望・意向(つまり意志)がある場合、それを果たすために役立つ手段として本が優れた導き手になる可能性が非常に高い」ということである。そしてこの「意志あるところ本あり。」において僕は、畢竟「いい酒を身近でも飲みたい」と駄々をこねウオォッホンエッヘン・・・未来を変えようとしている。


ここで言っているのは、酒への愛好とか酒への執着ではない。むしろ僕は、酒というものに非常に高い近接性を保持し、酒のある場の演出家として最高位にある職業性のことについてなにがしかを述べ立てたいのだ。


僕は「バーテンダー」という仕事に対してある種の憧憬を抱いている。


そうなのだ。僕はこの一言からこの文章を書き始めるべきだった。「僕は『バーテンダー』という仕事に対してある種の憧憬を抱いている。」


いかにも実直で素直な文章だ。そこには村上春樹的にラフロイグを飲み干すすかした主人公が現れそうな雰囲気が微量に含まれているが、一切の誇張も縮小も含まないこのワン・フレーズは旧約聖書の第一文言に勝とも劣らない響きをたたえている。


だからこそ、僕は「美容師とバーテンと図書館司書とだけは結婚してはいけない」などと言う輩は全く相手にしないし、第一「バーテン」というフーテンじみたことばも、何かしら親身な愛着のあるとき以外は好ましいと思わない。そういうことばを使う人間は、概して・・・。いや、こういう議論が行きつくところは概して・・・。要するに・・・。


僕はバーという場が好きだ。


バーテンダーの方は、自分の店(あるいは雇われの身であっても)という持ち場をあらゆる意味でコーディネートし、モデレートし、あるいはアジテートしている。まさに「生かすも殺すも自分次第」という風格を身にまとい、そこに在るあらゆる酒や道具や食べ物や雰囲気を巧みな言葉にのせてふるまい、そこに立ち入る者を魅了し惹きつける。


僕たち客は、こうなると抗う術はない。ただただ魅了されるに身をまかせ文字通り、そしてあらゆる意味でその夜に酔いしれる自らの身を客観的俯瞰的に三途の河の近くから眺めるほかない。そのままソウルが飛びたってしまったならもうけものだ。いや、死体が出てはお店に迷惑がかかるから魂を飲みこもう。


いや違う。僕が今日話したいのは、そんなことではないんだよ古き友人よ。


よく「ブック・ソムリエ」とか「本のソムリエ」とか、選書をしたり人に本を薦める職業乃至人物を指して「ソムリエ」という言葉が使われる。ラテン語起源のこの言葉は今なお格調高さを保っているフランス語ということもありどこか麗しく艶々としたイメージを与えるが、元来の意味は「荷馬車で酒を運ぶ人」というほどのものだそうだ。この辺りはフランス語の正式な辞書をもっていないし引いてもいないので定かではないから多くを語らないことにするが、そしてまた今現在の「ソムリエ」はワインにとどまらずあらゆる卓越したシーンで活躍する人材であることを疑うべくもないが、僕は「ソムリエ」ということばよりも「バーテンダー(bartender)」ということばの響きに美しさの形象をみる。


まずなんといっても「tender」が入っているのがいい。これは「番人・見張り番」という意味を表しているが、隠しても隠しきれないのが「Tender is the Night」のテンダーだ。『夜はやさし』というわけである。


そしてよく知られているように「bar」は、カウンター部にかけられていることがある棒であるとか、カウンターのつくりそのものを指す。それは客席とバーテンダーとの曖昧でありながら絶対的な境界線で、僕達はここをまたぐこともくぐることも許されない。絶対領域としてのバーカウンターは、店の空間を一閃にして引き締める存在だ。


一方で「bar」には「止まり木」という意味がある。人気の漫画「バーテンダー」では「優しい止まり木」という表現が出てくるそうだ。バー自体に「止まり木」とか「宿り木」とかいう店名がついている場合が多そうなもんだが、バーテンダーさん本人も「止まり木」というのは美しいものである。


「bar」あるいは「tender」がもつ言葉の多義性、あるいは曖昧さ。ファジーネス。それこそ僕が「bartender」にある種の憧憬を抱いている理由のひとつなのかもしれない。


バーに行くと、色々とファジーな注文をする方が多いのではないだろうか。


「今日のおすすめを」
「何か季節のフルーツをあしらって」
「ぴりっとくるヤツを」
「1920年代のアメリカで流行った酒を何か」
「うんとうまいやつおくれよぅ」
「この僕の隣にいるエリカ・リンダーのように素敵な方に似合うテキーラを何かシャンパングラスで」
「あぁ、うまいやつをくれ」

何だかとても迷惑に見えるが、こういうファジーな注文こそがバーテンダーの腕の見せどころ、あるいは心高まる瞬間なのかもしれない。(マジで迷惑なときもあるだろうけど(笑))


僕のイチオシ表紙のバー漫画『まどろみバーメイド』では、バーメイド(親しみを込めて呼んでます)をナメ腐った男性客が焼酎ベースのカクテルをリクエストし、見事なカクテルが出てきたことにノックアウトされてしまうという逸話がある。そこには勧善懲悪的な爽快感があると共に、客対バーテンダーの駆け引きがありデュエルがあり、そして凛としたふるまいの美しさと毅然とした風格が織り込まれている。曖昧で時には挑戦的な思考も含むリクエストに対し、自らの経験と知識とセンスで華麗な対応をする姿。これぞバーテンダーである。


もちろん、敵意の含まれたリクエストなんてそうそうないだろう。しかし「曖昧な注文」というのはよくあるものだ。そしてこれはまさに、僕の職場である図書館でもよく起こることであり、そこに応えることこそ僕の本懐である。


「何かヨシタケシンスケさんでおすすめない?」
「面白い本くれ」
「小学生3年くらいの子が素直になる本」
「金持ちになれる本」
「芥川賞作家の読みやすい小説」
「昭和っぽい本」

・・など、など。


こういうファジーなリクエストこそ、図書館司書が燃えるべき世界だろう。図書館にもカウンターがあるし、ある意味では僕だってBarのTenderなのだ。こうした注文に対して真摯な答えを返すことで、止まり木としての優しさを演出することだってできる。あくまで「もしできたら」の話だけれど。


そして、図書館で出すべき「答え方」は多様だ。本だけをとっても、数が多いだけでなくジャンルが多岐にわたり「一種類」ではない。新聞も雑誌も地図もある。インターネットで回答を導きだしてもいい。DVDでもCDでもいい。「情報資源の多様性」という無機質なことばの内奥には、僕たちの美しい酒棚が詰まっている。


その点が、僕は「ソムリエ」でなく「バーテンダー」でありたいと願う理由でもある。ソムリエとは何か一種のものに秀でたプロフェッショナルを想起させるけれど、バーテンダーは違う。幾種類ものスピリッツに秀で幾種類ものカクテルを生み出す方法を備え、そして時にワインを使うこともあれば料理やツマミにも通じている。もちろん得意分野があるし、その得意分野が彼・彼女の店の顔となることだってある。それは図書館司書だって同じだろう。たとえば僕は、海外文学のジャンルにわずかばかりの自信をもっている。


僕がまだ、バーテンダーと同じになれていない「憧憬」がある。それは所作の美しさだ。


ステア―する指の一本一本、グラスを差し出すときに添える手、グラスを磨く際にかしげる顔、ステムグラスを運ぶときの手つきはまるで氷上の白鳥・・・。ともすればバーテンダーというとシェ―キングのシーンだけが想起されがち(とはいえ僕も、シェ―キングが始まると思わず見入ってしまうけれど)だが、美しいのはそればかりではない。もちろんトム・クルーズみたいなの(『カクテル』)だけがかっこいいわけではない。バーテンダーの美しさは細部に宿り、陰翳の多い店内で微かに光るイデアの燈明のような希望が、バーのそこかしこに散りばめられているのだ。


僕は図書館司書として、そのような立ち居振る舞いをできているだろうか。まずできることと言えば「身なりを整える」こと。もともと僕はクック・グリース使いのソリッドな髪形を保ちたいタイプなので、よく言われるヘア・スタイルなんかはまぁ綺麗なんじゃないかと思う。問題はそれを美しく見せるための努力をしているかどうかと、それが乗っかっている顔が美しいかどうかである。それには多分、痩せなければならない。


椎葉村図書館「ぶん文Bun」が開館し、僕は5kgほど体重を落とした。それもこれも「テレビや新聞に出る機会が多いからかっこよくありたい」という気持ちが前面に出ているかもしれないが、本当に、いや嘘じゃなくて、僕の本当の思いは「所作の美しい人になりたい」というところであるし、その憧憬の行きつく先はバーテンダーという職業なのである。


僕は「バーテンダー」という仕事に対してある種の憧憬を抱いている。今日はこの正直で実直な一文に対して、自分の思いをぶつけてみた。あるいは僕は、Book(本)を扱うTender(番人)としてのBooktender(ブッテンダ―)なのかもしれない。そんなことを言っていると「何ぶってんだー」と言われそうであるから、今日の筆はここらへんでへし折ろうと思う。


哀しいことに、僕が使っているパソコンは「ぶってんだー」を「仏典だー」と変換した。どうやら僕の進む道は、仏の道となりそうである。


僕は仏にはなれない。そしてバーテンダーに転身することはできないだろうし、その知識や身のこなしや所作の流麗も身に着けてはいない。遠く及ばないのだ。


だからこそ今日のタイトルは「そうさ『気持ちは』バーテンダー」なのだ。気持ちだけでも気持ちよく、生きて在りたい世のなかである。


個人・小宮山剛