• 小宮山剛

十二月の路地裏で

12月ともなれば、人間は、あるいはすべての生き物は大きく二つの種類に分かたれることになる。それは言うまでもなく、表通りの者と、そうでない者である。

「表通りの者」というのは、そのまま東京都の表参道でも想像してもらえばいい。痛々しいほどに電飾の桎梏に掴まれた木々がケルビムの剣よろしく燃えるのを眺め「綺麗だね」とか

「寒いね、お家に帰ろうか」

「やだ、まだせっかく予約したディナーをよろしくしていなくってよ」

「もう、いいんだ。すべてがどうでもよくなっちまったさ。君をみているとね。さもなければここにもう一本のクリスマスツリーがよろしくしちまうよ」

「もう、このヒイラギちゃんは。悪い子ね。そういうところ、嫌いじゃないわ」などと言っている人間たち。こうした者こそが「表通りの者」である。


表通りの者たちがひしめくいつかのメリークリスマス

僕は今から何の話をするというのだろうか。いやもはや、ここまでの時点でブラウザをそっと閉じた人がいるのかもしれない。それはそれでいい、いいんだよ。哀しくなんかないさ。僕はあくまで、いつも、表通りの者ではない人間であり続けたのだからね。そうさ、僕は表通りには相応しくないのさ。僕はいつだって、表通りの寒風がふいに気まぐれをおこして迷い入るその先に、居場所を見出してきた。そこは路地裏の世界・・・。クリスマスツリーも山下達郎もマライア・キャリーも、または能天気なほうのチャールズ・ディッケンズも、あるいはホールデン・コールフィールドですらも立ち入ることの許されない世界なんだからね。やすやすとこちらを覗いてもらっては困るよ、ヒイラギくん。

12月のクリエイティブ司書特集を考え始めたとき、僕は危うくChristmas Carolなんかを安易も安易に取り出しかけていた。じっさいのところ、僕は村岡花子訳の和訳とぺらぺらのペーパーバックで買った原書とを両手に持ち据えてしまうところまでいっちまったんだから、これは表通りの者たちの誘因力たるや恐るべきというところである。あぁ、僕だって博多駅のクリスマスツリーを眺めながら「へぃ、姉ちゃん誰かまっとうと?明太子食べに行かん?」とでも一息奮発してやりたいところである。

それはそうだし、そういう日本の商業的クリスマスを一層するだけの蔵書を駆使して、いわゆるクライスト・マスたるべき12月25日の意義なんかを声高に叫んだっていいのだ。



博多駅のクリスマスツリーは今年も健在だろうか


ところがどっこい、私は一切クリスマスにふれない。それはもうやりつくされて擦過傷じみた1969年以降の東京そのものだし、何度も言う通りそういうパステルイエローな浮かれ役は、表通りの者に任せておけばいいのだ。そうだ、僕は「路地裏の世界」の者なのだ。

「12月の路地裏で」とはじまるものがたりを、僕はふたつ知っている。ひとつは僕が大学生の頃、まだ20歳をこえて1年も経とうとせずに、いずれは自分も表通りの者になれると信じ、それこそたまには表参道や恵比寿、六本木、あるいはみなとみらい周辺に繰り出して何やらわけのわからぬ泡立ちに時をくれてやっていた頃のことだ。もうひとつは、あぁ、こうして片方のことを思い出している間に忘れてしまった。なにせこの路地裏のものがたりは、いつだって僕を当時の蒲田に身も心も引き寄せてしまうのだから。JR京浜東北線の雑踏が東京多摩川線に乗り換える足音が聞こえる。京急蒲田の「ダァシェリイェス」は、徒歩で10分強かかる遠く京急蒲田駅からはまだ聞こえていない。グランデュオ蒲田の正面入り口には「4℃」があるが、僕にはそのブランドの読み方がわからない。すくなくとも、絶対に「ヨンドシー」なんていう絶望的にセンスの無い読み方だけはしないようにと神と犬に誓う。

これだけ駅のことを書いておきながら恐悦至極ではあるが、このものがたりに駅はでてこない。僕はその時、財布ももたずにランニングをしていたのだ。なぜ僕が蒲田なんかをランニングしていたのかはわからない。僕は当時川崎区側の多摩川沿いに住んでいたから、走るのであれば多摩川沿いを付近のセレブかぶれに交じって走ればよかったのだ。あるいは、それが嫌で僕はついぞ蒲田なんぞを走り始めてしまったのかもしれないけれど、当時のことはよく覚えていない。僕が今思い出せるのは、克明快活に脳髄がはたらき思い出せるのは、僕は12月の寒空もいとわず上下白のゴールド・ウィンのジャージを着て、財布も飲み物も、あるいは下着すらも身に着けずに、蒲田商店街をランニングしていた。ただそれだけである。

12月の路地裏で、僕は一人の女の人に呼び止められる。一度足をとめると身体が冷えてしまうとわかっていたけれど、耳にはめたイヤフォンから大音量で流れるオアシスの「シャンパン・スーパーノヴァ」で遮られながらも切迫感が伝わるほどの様子で声をかけてくるその女の人に、僕はただならぬものを感じた。僕は20歳で、ジャージの下は夏用の下着だけで心もとなかった。昨日の雨の名残を惜しげに抱えた雨雲からは、いつもう一度驟雨が落ちてきてもおかしくなかった。僕を呼び止めた女の人の背後で、奇妙に腰を動かす等身大のサンタクロースがリズムを刻んでいる。

「オニサン、マッサージどう?どう?すぐすぐ、キモチー」

僕は彼女が言ったことを脳内で152回くらいは反芻したと思う。たしかにその時の僕は寒さに打ち震えていたし、ランニングをし始めてもう何時間経っていたかもわからなかったから、温かい部屋でマッサージを受けるというのはとても魅力的な提案だった。僕は一瞬だけ、新品のサウナ・マットがひかれた遠赤外線サウナで汗だくになった後、力強い手つきで全身をもみほぐされる様子を想像した。あるいは僕が両手を組んで頭をのせたベッドサイドには、南国を想起させるピニャ・コラーダみたいなカクテルだって置いてあるかもしれない。すぐすぐ、キモチー、とは多分そういうことなのだろう。僕だってもう二十歳を超えているのだ。すこしくらいすぐすぐ、キモチーする権利くらい主張しはじめたっていいはずだ。12月の路地裏で、僕はそんな風に温かい部屋とサウナ・マットの尻触りと、飲んだことはないが聞いたことがあるピニャ・コラーダとに、ひと時にして邂逅できる機会を得ようとしているのだ。

しかしそんな想像もすぐに吹き飛ぶ。目の前の女性は足を止めた僕に対し、明るい笑顔で右手をふりふりしながら誘ってくる。40代をすこし超えた人のよさそうなおばさんで、丈の長いベンチコートみたいな上着をくりんくりんと身体に巻いていた。僕の目にはおばさんの右手のふりふりとその後ろで腰を奇妙にふりふりしているサンタクロースの動きが重なり、ひとつ古代の幽玄を醸す特別なリズムのように思われた。そのとき僕はちょうど慶應の文学部に在籍していて、自らの専攻を英米文学に定めようとしていたのだ。そして僕が専門にしようとしていたのが、ほかならぬ「奇妙な腰の動き」ということばを『チャタレイ夫人の恋人』のなかで用いたD. H. Lawrenceであった。

D. H. Lawrenceとの出会いは、彼が名をはせた小説でのことではなかった。僕はなんせ自分の学問の重きを「死と生」においていて、なんとなく自分は哲倫の輪に吸い込まれていくのだろうなと考えてもいたから、小説なんてあまりとんと読まなかった、なんていうところがある。僕は大学一年生の頃と言えばプラトン、アリストテレスを熟読し、ときに時代を飛び越えフロイトやヒットラー関連の本を読みナルシシズム論を読み解き自分の顔を鏡で見つめる、そんな生活をおくっていたというわけである。

思えばこのとき、フロイトにふれていたことがD. H. Lawrenceに繋がったのかもしれない。時代を登らねばとショウペンハウエルやハイデッガーに挑戦しなければと哲学の系譜を無視した飛び級をしようとしては挫折を続けていた僕にとって、文学から差し伸べられた救いの手はあまりに甘美なものだった。文学者たちは、死と生の問題を生活や愛に引き入れて、美しく描きなおしていた。そこには僕がかろうじて理解できたプラトンの文章のような美しさがあり、ソクラテスの語りがあった。語るべきことは多くあれど、それを美しく語るかどうかが肝要なのだ。

そうしてまた、この文章自体があまり美しくないということも自己矛盾をはらんでいる。美醜の破綻はどんな場面にも潜んでいるのだ。そうだ思い出した『不安の概念』は、一番難しかった。あれは誰が書きやがったんだっけか、忘れちまったよ。

そんなことを考え始めちまった僕を、路地裏のおばさんは見つめ続けている。そうだった。僕は蒲田の路地裏ですぐすぐ、キモチーするかどうかを問われているのだった。僕はギリシア哲学も現存在も自殺についての想念も、あるいはキェルケゴールさえも吹き飛ばして、目の前のおばさんとの受け答えに集中しようと努めた。そうするとすぐに、僕は裸一貫で財布も飲み物も持っていないことを思い出した。

「あぁ、お金がないんです」

「ダイジョブダイジョブ、キモチーこれだけ、ダイジョブ」

そう言うとおばさんは、ふりふりしていた右手の形をまるで魔法を繰り出すみたいに変化させ、人差し指をたてて見せた。お金の話をしているという文脈で一本指が出されたということは、それは多かれ少なかれ金額を示していると当時の僕は判断する。一本。それは1,000円なのだろうか。いや、マッサージで1,000円というのは安すぎるだろう。多分5分もせずに終わってしまって、きっとキモチーにはならない。そんなのはマッサージとは言えない。マッサージというのは筋骨のゆがみやこりをほぐし、施術士の経験と知識に裏付けられたフィジカルな、しかしながらメンタルな要素も含まれる壮大かつ繊細な取り組みでなくてはならない。もし1,000円のマッサージがあるとしたら、それは孫の手よりも貧相なものだろう。

と、いうことは10,000円だろうか。蒲田にそんな立派なマッサージ屋さんがあったのか、と当時の僕は思う。きっとそれは贅沢の「贅」と「沢」とが別々に代わる代わる僕を攻め立てるような、流線型の鳥のように美しい動きで行われるマッサージなのだろう。おばさんが「すぐすぐ、キモチー」というのも納得である。そんなマッサージであるならば、僕は現在の有り金をはたいてでも受けてみたいものである。いざいかん、すぐすぐ、キモチー!それこそ哲学の極まる境地なり!

しかし僕は、もう一度自分の寒々とした身体とポケットのことを思い出す。そうだった、1,000円どころか1円ももっていないんだった。僕はすぐすぐ、キモチーを諦めるしかないのだ。そんなに腕を究めたマッサージ士が蒲田にいるということを知っていたならば、僕はもしかしたら10,000円をもってランニングしていたかもしれない。しかし無いものは無いので、自分自身の不明を恥じて正直なところを言うしかないのだ。

「あの、1円もないんです」

「ゼロ?ゼロなの?」

「はい、もうほんとうに何も持っていなくて」

僕はポケットを裏返して見せた。ゴールド・ウィンのジャージのズボンと、トップスと、計4つのポケットをひっくり返してみせた。

「じゃあ、アンタ、ナニシニキタヨ?」とおばさんが訊く。そう聞かれると僕は戸惑ってしまう。何しにきたんだっけ。と言うか、僕はこのおばさんに会いに来たのではないのに、どうして「ナニシニキタヨ?」と訊かれなければならないんだろう。もしかしたらこの路地裏はおばさんの住居だか店舗だかの玄関口になっているのかもしれない。そうすると僕は不法にそこへ立ち入っていることになるから、即座に謝らなくてはならないのかもしれない。けれど「すぐすぐ、キモチーこちら」みたいな立て看板でもあれば別だけれど、何にもない路地裏を通り抜けようとしただけで不法な侵入を疑われるのは納得いかないことである。僕にだって、自由に路地裏を通る権利くらいあるのだ。

「はははははは!」とおばさんが笑う。ゼンマイ式のサルがシンバルをバシバシと叩き始めたような、豪快でかつ恐れを抱くような笑い方だった。はははははは!はははははは!はははははは!!!

それでも、つられ笑いというのは往々にして起こるものである。気づけば僕も「はははははは!」と大きく笑っていた。すべてポケットを裏返しにして、寒さに震えながら、一文無しで、12月の路地裏で笑っていた。はははははは!はははははは!はははははは!はははははは!!!!

「今日くらい、頑張らなくてもいいよね」と、おばさんは言った。おばさんの背後で踊っていたサンタクロースは、電源を切られ店のなかにしまわれていった。おばさんは「はははははは!」と笑いすぎたために、涙がこぼれてしまったようだった。

「頑張らなくてもいい日があると思います」と僕は言った。寒さで口が震えて、差し歯にした前歯がとれるかと思うほどに上下の歯がかち合っていた。

「オニサン、寒いだろ」とおばさんが言う。僕は「寒くないですよ、また走り出せば」と答える。おばさんは二度丁寧に頷き「じゃあ、オニサンは頑張る」と言う。厚く塗られたマスカラが、白い肌に二筋こぼれている。

僕はまた、おばさんに手を振り別れを告げながら走り出す。おばさんの背後に続く路地裏は、店じまいをしたバーの暗がりのように深かった。僕はけっきょく「すぐすぐ、キモチー」しなかったけれど、あのおばさんとの路地裏でのわずかな会話はずっと僕の心臓の裏あたりで続いている。頑張らなくてもいい、頑張る。人生におけるその繰り返しの拍動が、あの路地裏で今も続いているような気がする。

僕はその夜、大学での専門を死生学とすることに決めた。それはサンタクロースの奇妙な腰の動きがD. H. Lawrenceを想起させたからであり、路地裏の暗がりが「死の船」の闇そのものであり、「すぐすぐ、キモチー」が未知の世界、境界の向こう側を思わせてくれたからなのだ。たぶん。そういうことにしてほしい。しなさい。してください。。。

僕にとって、死生学について二人きりで、たとえばラフロイグ・ソーダでも飲みながら真剣に話せるような相手は、今のところ3人しかいない。そのうちの一人はもうこの世にはいないし、もう二人とはこのところ全然会っていない。だから僕は自分の家に横たわるいくつもの死と生を読むための美しい本たちを眺める度に、12月の路地裏での出来事を思い返すよりほかない、そんな破目にはまっている。

だからこそ僕は、そんな路地裏でひっそりと語り合うべきもののように扱われている「死と生」に光を当てたいと思う。ちょうど12月といえば年の終わりであるから、終わりと始まりを考えるにもちょうどいいじゃないか。D. H. Lawrenceの詩に’The End, the Beginning’がある。死は新たな生の始まりであり、生は死の成就への努めなのだ。そのことを端的に表しているのが「死を真正面から語ることは、死と遠ざかっていると錯覚する者にしかできない」ということである。死を実際の緊迫した問題として感得したならば、それは語りではなく悟りの対象となるのだから。

はるかな草原の向こうで鳴る遠雷のごとき死の姿を、すこしだけ垣間見てみませんか。クリエイティブ司書の趣味全開の棚を、ご覧ください。

①『大英博物館 古代エジプト展』


②『DEATH 「死」とは何か:イェール大学で23年連続の人気講義』


③『死生学』(東京大学出版会シリーズ)


④『異界:中世ヨーロッパの夢と幻想』


⑤『初稿・死者の書』


⑥『今日は死ぬのにもってこいの日』


⑦『日本人の「あの世」観』


⑧『ブッダの死生学講座:死を見つめ、今を生きる』


⑨『死ぬ瞬間:死とその過程について』

できれば遠ざけたい話題である「死と生」ですが、こういう本が身近にあることで、死への学びを生活に取り入れることができます。その結果何が生まれるのか・・・?それは人それぞれかもしれませんが、僕の場合は「人への赦し」や「果断(決断力)」が生まれたように思います。

古代エジプト展の図録なんかは、見ているだけでもなんだかワクワク。梅原猛や折口信夫にはなかなか手が出せなくても、シェリー・ケーガン先生や井手先生のお話であればすんなりと理解できるでしょう。ネイティブ・アメリカンの死生観はどこか日本人のあの世観に通じるところがあったり、臨床体験としてのキューブラー・ロスの語りは人類皆が得心いくところかもしれません。

死と生を語るとき、忘れてはならないのが「向こう側への憧憬」なんだと思います。となりのトトロや崖の上のポニョが死生観と並行して語られるとき、死への恐怖は生への理解へと昇華していくような気がします。人類普遍の(不変の)憧憬としての死世界は、もちろん日本神話の黄泉の国や、あるいはギリシア神話のヘテの河、パーセフォンをさらうハデス。。。そのつながりは尽きるところがありません。


なんだかんだと言いつつ、今回の棚の選書理由は「自分の好きな本をおきたかった。むしゃくしゃしてやった」ということにつきます。どうぞ、ご笑納くださいませ。




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