• 小宮山剛

『或る幻我』

 今テラスに座ったばかりのカップルに「手頃なスコッチのハイボール」を二つ。カウンターの鬱陶しい男二人のテイスティング・グラスにはまだ大量のアイラ・ウィスキーが残っている。ⅤⅠPルームはそろそろ新しいシャンパンを要求してくる頃で、銘柄はヴーヴ・クリコ。あとは下のフロアだけれど、今のところ上階カウンターへの連絡はない。


 紗良は自分がカウンターに立つ店の状況をため息まじりに俯瞰する。福岡の春吉にあるこの店には、終始客が出入りしている。たまに芸能人が来ることもあるような人気店で、ⅤⅠPルームは毎日のように予約でいっぱいになっている。店はビルの五階と六階にまたがっていて、紗良はオーナーから五階にあるカウンターを任されている。彼女は二十五歳とまだ若いが、ここは熟練したバーテンダーがいるオーセンティックな店ではない。


 紗良がテラスのカップルに出すウィスキーをカティ・サークに決めスクリューを開けたとき、左耳につけたインカムが騒々しく鳴る。


「沙良さん、五階ですぅ。ドリンクいいですかぁ。あのぉ、ジン・トニックが三つ、スクリュー・ドライバーが二つとぉ、ピニャ・コラーダが五つですぅ」と、五階フロア担当の江口が喋る。フロアスタッフのなかでもアレはとびきりの馬鹿、と紗良は常々思っている。


「いいですかぁ」と江口が耳に触る声でもう一度言う。


「了解」とだけ紗良は言う。なんでこんなに注文を溜め込んでから上げてくるのよ、と言いたいところではあったが、そんなこと馬鹿に言っても仕方がない。この世は仕方がないことであふれているのだ。


 紗良は福岡の東部にある町で生まれ育った。地元の中学を出て、福岡の中央区にある中高一貫体制の女子校に入学した。彼女にとってはどの中学でもどの高校でもよかったのだけれど、学歴にこだわる両親がそうさせたし、ほんとうは沙良が通っていた学園の中等部へ入るようしつこく受験を促された。でも紗良は高校入学にあたって仕方なく受験をしたのみで、大学受験については頑として受け容れなかった。彼女の周りは早稲田や慶應に入り「素敵な」男の子と出会うことばかり考えていて、紗良はその馬鹿げた空想にとてもつきあいきれなかった。まともな男なんて、この世に存在するわけがないのだ。


 沙良は鬱々とした気分でテラスのカップルに出す二杯のスコッチ・ハイボールを仕上げ、六階フロア担当の田中くんに渡す。彼はいつもどおりの無難な手つきで、二杯のグラスを無難に運んでいく。彼女が苛立たしい十杯のカクテルに取りかかろうとすると、新たな客がカウンターにやってくる。もう、馬鹿みたい。


 いらっしゃいませ、と沙良が声をかけると、男はただ目線を紗良に向けただけで外套を田中くんに預ける。田中くんはそれを無難に受けとる。感じの悪い客だ。


 五階フロアのいまいましい十杯のカクテルを仕上げてしまい、沙良は感じの悪い男に声をかける。「お待たせして申し訳ございません」。しかし男はただ会釈をするだけで、これならばまだうるさい客のほうがやりやすい。一月もまだ半ばという浮かれた店内のなかで浮かれていない客をみると、まるで自分が浮かれた烏合の一人として蔑まれているように思えてくる。


「お決まりですか?」と紗良は男に対して続ける。江口がどたばたと階段を上がってきて、カウンターから十杯のカクテルを引きずり降ろす。あぁ、見ているだけで腹立たしい。時刻は二十二時五十七分で、今夜はまだまだ長い。


「シャルトリューズを」と、ただ会釈するだけの男が言う。


「ヴェールを、炭酸で割ってくれませんか」と男。男の傍らではもう二人の別の男が、そろそろラフロイグを空にしようとしている。男だらけのカウンターほどに哀しいものはない。

「シャルトリューズ・ヴェールのソーダ割ですね」と紗良は言う。それが大切な宣言のくり返しであり、決して失われてはならない太古のことばであるかのように、彼女はそれを幾度もこころの内側で反芻する。シャルトリューズ・ヴェールの、ソーダ割。


 酒棚から緑色の瓶を引っ張り出すと、前に注文されたのはいつだったかしらと思う。作業台にシャルトリューズを置き、足元の冷蔵庫からウィルキンソンを取り出す。シャルトリューズの男をちらりと見やると、彼はぼんやりと外を眺めている。沙良は店から眺める景色なんて気にしたことがなかったけれど、彼はどうやらその、キャナルシティやら何やらが騒々しく詰め込まれた中洲の景色が気に入っているらしい。


「お待たせいたしました」と紗良。ラフロイグの男たちが会計を済ませたそうにしているのをひとまず無視して、シャルトリューズ・ソーダを出す。シャルトリューズの男はそれでもまだ外を見ている。男の様子は、もしかすると彼は沙良が見ているものとは別の景色をそこに見ているのではないかと思わせるほどだ。しかし彼女が見る限り、そこにはいつもどおりキャナルシティの馬鹿げた看板が輝いている。


 紗良が炭酸で薄まった緑色のシャルトリューズを置くと、「お会計」と別の男たちのうち一人がぶっきらぼうに言う。紗良が手早く会計を済ませると、二人で六千八百円だった。けちな客だ。


 けちな客たちが帰ったカウンターを片づけていると、ようやくシャルトリューズの男が外を眺め終えたようで、カウンターに向きなおる。一連の儀式を終えたかのようにジャケットの裾や襟を正すと唐突に、紗良に声をかけてくる。


「ねぇ、あなたも一杯どうですか」とシャルトリューズ。彼は四月一日の大学生みたいな顔をしていた。


「ありがとうございます」と紗良。客から一杯の奢り酒をもらうとき、彼女はたいていデュワーズをソーダで割ることにしている。しかし男の晴れ晴れとした顔の下で輝く淡い緑色のグラスを見ると、紗良は「私も、シャルトリューズを」と口走る。


 シャルトリューズはエリクシール。霊薬とも呼ばれるリキュールだったなと思いながら、紗良は自分用のテイスティング・グラスを緑色に染めた。


※※※


 あの男の人はどこへ行ったんだろう。紗良は自分たちの店の営業を終えて座ったバーのカウンターで、シャルトリューズの男のことを思い返す。自分がカウンターの内側に入るよりも、こうしてただ話しかけられることも話しかけることもせずに座っているほうがずっといい。自分たちの店のことなんてすっきりと忘れるに限るし、ウィスキーはソーダで割るならデュワーズ、ストレートならばアードベッグに限る。しかし今日の紗良は、仕事場でのことを思い返し続けている。


 シャルトリューズの男は、紗良が荒れ放題のVIPルームを処理している間に消えてしまった。こんなことなら、部屋が荒れていようがどうしようが田中くんに全て任せてしまえばよかった。


 バー「鶴」の扉を一人の客が開く。紗良はすぐさま振り返るが、先ほどの男とは異なる男がそこに現れるのを見るとグラスに視線を戻す。馬鹿みたい。


 その男は紗良の右側にひとつ席を空けて座ると、外套を脱ぎスツールの背ももたれにかける。紗良は自分のグラスを見つめ続け、そろそろ帰ろうかと思案する。時刻は、彼女が「鶴」の扉を叩いた時点で三時を過ぎていたはずだ。


 「シャルトリューズ・リッキーをくれませんか」と男が言う。紗良は思わず、先ほど自分たちの店に来た男の顔を浮かべながらシャルトリューズ・リッキーの顔を見る。そこには全然違う、しかしどこか見覚えのある顔がぼんやりと酒棚を見つめている。


 紗良があまりにも勢いよく男のほうを向いたので、彼のほうでも紗良を意識した。彼は紗良を意識の範疇にとめ、見つめ、口角をあげる。そのただの微笑みとは解釈しがたい微笑みに、彼女はたしかな懐かしさを覚える。


 男の顔には本当のところ、どこか見覚えがあった。沙良はその既視感をたどることに夢中になり、長く無言で相手を見つめてしまっていることになかなか気づかなかった。


「えぇと」とやっとのことで声を出し「あの、すみません」と次のことばを探す。しかしその後を引き取ったのは、彼女の右側に座った男だった。


「いや、無理もないでしょう」


 紗良はそのことばを無言でくり返す。「いや、無理もないでしょう」。いったいその含意はなんだろうか。彼女が何も言わずに自分のグラスに視線を戻そうとすると、「鶴」のマスターがシャルトリューズ・リッキーを男の前に差し出した。


「驚かせてすみません」と男がこちらにグラスを差し出してくる。紗良は自分のウィスキー・ソーダでそれを受け止めると、グラスのふれる音が身体の内奥まで響くような気がした。


 帰ろうと思っていた。けれど紗良は「驚かせて、すみません」とはどういう意味なのかと彼に尋ねてみたかった。彼女はマスターに視線を投げかけ、彼が手のひらをこちらに向けて首を軽く傾けるのを待つ。そうして客に注文を促すのが、彼のやり方なのだ。


「シャルトリューズ・リッキーを私にも」と紗良。ひとつ席を空けて座った男は、微笑みながら自分のグラスを見つめている。


 これが今日何杯目のシャルトリューズだろうか。彼女は一杯、二杯、と数えながら、先ほど自分たちの店に来た男の顔と、今すぐ傍にいる男の顔とを頭の中で横並びにしてみた。二人の顔はリキュールと炭酸が交わるかのように溶け合い、泡沫をかすかに発しながら消えていった。


※※※


 夜なのか朝なのかもわからずに、ずり落ちた薄い掛布団を肩まで引き上げながら沙良は訊いた。「ねぇ、今何時なんだろう?」


「本当によく眠っていたよ」と昨晩の男が答える。「昨晩」という言い方が正しいのかどうか紗良にはわからない。もしかしたら彼と春吉のホテルに入ったときにはもう朝になっていたのかもしれない。しかしこれまでに何度も「鶴」で出会ってきた男たちと同じように、彼はあくまで「昨晩の男」だった。何人いるかもわからない「昨晩の男」たちの列、その最後尾にまた一人加わったにすぎない。


 しかしながらこの男には―ホテルに入り五度目のキスを交わした後に「マサハルと呼んで」と言ったこの男には―また会っても悪くないと思った。


「今日はお店に出ないの」とマサハルが訊いてくる。紗良はぼんやりと自分がバーテンダーであったことを思い出し、それを他人事のように想像する。そうか、私は今日も「店に出る」んだった。


「実は今日帰らなくちゃいけないんだ。ちょっと遠いところに」とマサハルがことばを継ぐ。まだ紗良は裸なのに、マサハルはもうジャケットまで着こんでいる。


「遠くって、どこにいくの?」と紗良が訊く。「ちょっと遠いところ」というマサハルのことばは、近いけれど永劫の時の向こう側にある場所を思わせた。すぐ傍にある彼岸。異界の香り。


「椎葉村っていうんだ」とマサハル。「ここから車で三時間くらいかかるから、そろそろ出ないといけなくて。福岡、というか熊本寄りにあるけれど、とにかく宮崎県だから」


「ねぇ、私もそこに連れていってくれない?シイバソンって、私行ったことがないな」


 その時の彼女にとってそれはあまりにも自然なことで、来るべき機会が訪れただけのことだった。マサハルのほうでも、突然の申し出をあまりにも自然に受け容れていた。まるで、起き抜けにちょっと近くのラーメン屋へでも出かけるみたいな雰囲気が春吉のホテルの一室に満ちた。


 マサハルはソファから立ち、紗良がまだ裸で寝ているベッドへ寄ってくる。彼はジャケットのままで掛布団の中に潜り込み、紗良と長い口づけを交わした。


※※※


 椎葉に着いた頃には午後四時も近くなっていて、車から降りた紗良を冗談みたいに冷たい風が迎えた。そこは、とても九州とは思えないほどに寒かった。


「もう夕方だから、町で買い物をしよう。そんで南郷に行って軽く酒を買う。南郷には温泉もあるから、そこで風呂に入るとしよう。俺んち、五右衛門風呂で寒いからさ。ねぇ、今日泊まっていくんでしょう?」マサハルは寒がる沙良を笑いながら訊いた。


 紗良は「マチ」がどこなのかも「ナンゴウ」が何かも見当がつかないけれど、ともかく頷いた。また車に乗り込んで「町」に行くのだと思っていると、マサハルは一人で歩きだす。


「ねぇ、町に行くのはどうしたのよ」と彼を追いかけながら紗良が声をかける。しんとした椎葉村の通りに、彼女の声だけが響き、遠くで何か動物の声がそれに応えた。マサハルの車が停まっているあまりにも広い駐車場は、道の駅か何かの建物の横に延々と伸びている。


「行くって、ここが町だよ。JAだってあるだろ?役場だってある」とマサハルがそれぞれの建物を指さす。たしかにJAの店があったし、紗良が道の駅だと思っていたのは役場だった。


 彼女はマサハルについて小走りをしながら、JAに向かう。駐車場の反対側にある商店からは香ばしい空気が漂っていて、すこし奥を覗いてみると洒脱なパン屋になっていた。パンの香りはどことなくマサハルのキスを思い出させ、沙良は彼に駆け寄り強く手を握った。


※※※


 南郷までの道のりは福岡から椎葉へ来たどの道よりも険しく、マサハルのハンドルさばきもずっと慎重になっていた。


 夜はすき焼きをつくるとマサハルが提案したので、南郷の酒屋でそれに合わせた酒を沙良が選んだ。田舎の酒屋とは思えないくらいに充実した品ぞろえに驚く彼女をマサハルが微笑ましく眺めていて、沙良はそうした光景がいつまでも続けばいいと思った。


 酒屋を出て温泉のほうへ向かっていると、道の先のほうに人だかりが見えた。


「椎葉村にはぜんぜん人がいなかったけれど、ナンゴウ?にはけっこう人がいるんだね」と彼女はマサハルに言った。


「師走祭りだな」とマサハル。ことばを継いで「一月の半ばにやる祭りなんだ。百済の王様が遠路はるばる日本に、しかも宮崎の日向っていうところにやってきて、南郷まで逃げおおせてきたという伝説でね。一年のうちで南郷が最も賑わう時期だよ」と言う。


 沙良はクダラと言われてもハッとするところがなかったが、マサハルが「ほら、白村江の戦い」と言うと納得した。六六三年に勃発したと言われる争いの年代を世界史の授業で覚えたし、中学生の頃だったか福岡の太宰府にある水城を見学させられた。唐や新羅に攻められて跡形もなく滅ぼされたと思っていた、百済の国の王が逃げ込んだと言われる土地へ自分が来ているということに、沙良はどういう文脈なのか判別しかねる感興をおぼえた。


「それで、百済の王様はここで幸せに暮らしたの?」と沙良は訊く。


「詳しくは知らないんだ。だけれど師走祭りの由縁は、王とその息子が宮崎の地で離ればなれに暮らしていた当時、毎年師走―旧暦の師走だな―その時期にだけ会っていたということ、そういう伝説を祀っているそうだ」


「伝説なんだ」


「そう、伝説だよ」


 マサハルはそう言って、温泉施設の駐車場にジムニーを停めた。沙良は一年に一度だけ会う親子のことを考えてみる。しかしそんな哀しい伝説とは、今の紗良はあまりに遠いところに立っていた。彼女自身の人生と別離した親子の伝説は、まったく関係がないものなのだ。


 街なかのスーパー銭湯とは異なりこぢんまりとした浴室で洗い場の鏡をみて、沙良は自分が今朝から化粧をしていなかったことに気づく。普段は店に立つため夜に化粧をするから、朝起きて化粧をするという習慣が彼女にはなかった。


 鏡のなかには沙良の顔が映っていた。もちろん、彼女の顔が明々と曇りなく映っていた。けれど沙良はその鏡の自分を、マサハルに重ねてしまう。実際のところ、マサハルと彼女はとてもよく似ていた。口づけするときも抱き合うときも気づかなかったけれど、南郷に来て温泉の洗い場の鏡を見て、彼女は気づいたのだ。私は彼の顔をしている。


 沙良はあまりにも彼女自身の顔をしたマサハルとあまりにも彼の顔をした自分との関係を喜べばいいのか、不安に思えばいいのかわからなかった。彼女はマサハルと約束した一時間という時間のほとんどを洗い場の鏡の前で過ごし、冷え切った身体のまま浴室を後にした。


※※※


 南郷の夜空にはどこが星座なのかわからないくらいの星々が躍っていた。沙良が歓声をあげると、「椎葉のほうがもっと綺麗だから、ほら帰ろう」とマサハルが言った。「帰ろう」という響きが、彼女には心地よかった。


「ねぇ、さっきお風呂場で鏡を見たの」と紗良が切り出す。


「鏡」とマサハルはくり返し、エンジンをかける。


「もちろんそこには私の顔が映ってるんだけど、私気づいちゃったの。もうずっと鏡に見入ってしまって、なんだか不思議な気持ちなまま一時間近く過ごしちゃった。そのとき私思ったんだけど、」


「俺たちはよく似ている。似すぎている」。マサハルはアクセルを踏み込みながら言った。

 沙良は最初、マサハルも同じことに気づいているんだという微かなときめきを感じた。バーで、ホテルで、ここに至るまでの車中で、彼は私と同じことを考えていたんだ。


 しかし温泉を出て道路に車を滑り込ませるマサハルの表情は「無」そのものだった。そしてその顔は、あまりに沙良に似ていた。


「さっきの、百済の王様の伝説だけど」と、彼は唐突に切り出した。どうして今、遠い昔の遠いどこかの話が出てくるのだろう。沙良は、急に車の速度が上昇した気がした。

「彼らは『本当に』日本にやってきたと思う?」


「『本当に』って言われても、私わかんないよ。だってそれは伝説だし、ずっと昔のことだし」


「勘みたいなものでいいから」。マサハルはアクセルを更に踏み込んだ。右手の人差し指がハンドルをカツカツと叩いている。


 答えざるをえない切迫感に押し出されるように、彼女は声を出した。


「来たんじゃないかな、きっと。戦いに敗けたあと親交があった日本にきた。自然な話だと思うけれど……」


 沙良の右に座った男は、黙ったまま運転を続けた。夜闇は深く、フロントガラスからは星空などみえない。ただ道の両側に生え続ける木々がヘッドライトに照らされては、二人の後方へと走り抜けていく。彼らの乗った車以外には、前にも後ろにも光が存在しなかった。


「幻我」


「え、なに?」と沙良は訊き返した。視界に乏しいせいか、聴力までも損なわれてしまったかのようだ。


「どの人間にも、自分に似た者が三人いると言われている」と、彼はゆっくり唱え聞かせるように喋った。それを聞くと沙良も、彼がなんと言ったのかを理解することができる。


「ドッペルゲンガーって言ったの?」


 男はフロントガラスを見つめたまま、また一段と速度を上げた。山あいの急カーブを曲がる度に車体が傾き、沙良はシートベルトを握る手を絞った。


「ねぇ、急いでいるの?」と沙良は隣の男を覗きながら問いかける。


「幻我は」と、彼は闇の奥をみすえたまま語りはじめる。「幻我は、ドッペルゲンガーなんかとは違うんだ。ことばの表層的な意味合いだけじゃなくて、本質的にそれらは異なっている。幻我は思念上の廃棄物を条件とした、憧憬の権化としての存在なんだ」


 沙良は慟哭に似た不安を隣の男の口ぶりから感じた。彼のことばは何かに操られているように不自然な自然さをもって流れ出てきている。


「それで」と沙良は続ける。「幻我と百済の王様の伝説と、何が関係あるの?」


 そう言いながら沙良は、闇夜の奥から月光が差し込むのを見た。満月に近い、一月半ばの冬の月が彼女たちを捉えていた。


「『関係あるの』だって?」と、男は低くうなるように言った。大声ではないが、そのことばから発される波動は窓ガラスをすこし震わせた。


「俺はお前の思念が生んだ幻我なんだ」と男は続けざまに言った。「人間は、自分がおかれた環境と違う場所をむやみやたらに望む。俺はお前が、福岡のくだらないバーで『馬鹿みたい』と宣い続けて働いていたときに吐き捨てた思念上の廃棄物なんだよ。それと同時に、俺はお前の憧憬でもある。お前は一時期、すこしは真剣に、喧騒のない場所で過ごしたいと考えたことがあるだろう?でもすぐに、そんなことはできないと諦めた。ひとつの行動もせずにだ。そんな中途半端な衝動のせいで生みだされたこっちの身にもなってほしいものだ。お前に、誰かの廃棄物として生きることの意味がわかるか。お前が『馬鹿みたい』とつぶやきながら過ごした日々を、同じ時間を、俺がどのように過ごしてきたのか想像できるか」


 路面に擦れるタイヤの音が微かに聞こえた。男の声が途切れると、闇夜の静寂というにはあまりに騒々しい車の走行音が山道に反響した。沙良は何かを話さなければと言語化できるものを掻き探したが、こころの中は既に空漠と化している。


「ドッペルゲンガーと幻我は違うと言ったが、共通していることもある」と男がまた話しはじめる。沙良は、先ほどは通っていない道を延々と走っているような気がする。しかし実際のところ彼女には、道なんてまったく見えていなかった。


「でも、私とあなたは女と男。ぜんぜん別人じゃない」。


「それは、あくまで表層的なことだ。便宜的な問題に過ぎないんだよ。お前は、自分が本来的な意味で女だと思っているのか」


「本来的な意味で、女」沙良はそう呟きながら、ことばの意味を考える術もなくシートベルトを握り続けている。沙良の思考がまとまらぬままに、男が説きはじめる。


「百済の王と日本に現れたその幻我は、たまたま両方とも男だったんだろう。いずれにせよ顔は同じなんだ。本物の百済の王は、戦火に苛まれながら日本に移ることを願った。それは強い願いだったのかもしれない。でも実際のところ、王は諦めたんだ。そうして百済の王は百済の国で消え、彼の幻我が日本で生き延びた。忽然と現れた日本での百済の王は伝説となり、今も師走祭りというかたちで受け継がれている。実態と存在性との矛盾を超越する幻我を説明するためには、伝説というかたちをとるよりほかなかった。それが真実だよ」


 二人が乗った車中の冷気は耐え難いほどの緊迫感をもって充満していた。冷ややかなのに息苦しい、そのエントロピー的感覚はフロントガラスの向こう側から真っ白に輝きながら二人を照らす月によって増幅され続けている。車は急坂を登り始め、男はギアをまた切り替えた。


「まぁ百済王の伝説については、俺も『真実』と言えるほど理解しているわけじゃない。幻我として俺が思うところでは、王たちは幻我だったという可能性が高いというだけだ。それは可能性のゆらぎなのかもしれない。でも、ひとつ確実なことがある」。沙良は、その先がわかっているような、まったくの暗闇であるような、双方の運命的予測の狭間に立たされた気がする。ここが境目なのだ。


「俺たちは出会ってしまった以上、同時に存在することはできない」


 そう言うと彼は、上り坂の頂上めがけてアクセルを踏み切った。エンジンの駆動音が悲鳴をあげ、沙良があげるいかなる声もかき消される。すべての音はこの世にあふれゆく音のひとつとして生み出され、音の墓場へと集積されていった。やがて登坂は終わり、ガードレールのない道の端が月に照らされ、闇がきた。それが沙良が見たすべてであり、月光が生みだす淡い闇はどこまでも続いていた。


※※※


 僕がバー「鶴」の扉を開けると、マスターがこくりと頷きカウンターの一席へ僕を案内した。開店して間もない時間を選んだため店には誰もおらず、僕がこれから話すべきことを話すにはうってつけだった。


 ラフロイグのソーダ割がすぐに提供され、僕はマスターにも一杯何か飲んでもらうよう促した。彼は綺麗に撫でつけた白髪をより綺麗に撫でつけ、手早くデュワーズのソーダ割をつくった。軽くグラスを合わせるとき僕は福地さんのことを思い出し、死者への弔い酒を味わった。ピート香が口のなかで立ちのぼる。


 しばらく無言の時間が続いた。手早く事情を訊かなければと思いつつ、僕は福地さんの最後の夜について尋ねることをためらっていた。それはあまりにも不躾で、もしかすると永久に問われぬままにしておくべき秘匿ではないかとも思われた。


 僕がそう考えあぐねながら氷を揺らしていると、マスターが「こちらは、はじめてですね?」と訊いてくれた。僕は来店した理由を切り出す口実を見出し、あとは貯水池が放水されるかのように福地さんのことを話し続けた。彼女が失われた前夜、僕たちは中学校の同級生たちと久しぶりに中洲で集まっていたこと、SNSで福地さんが働いているバーを知っていた友人がそこに行こうと言い出したこと、でもけっきょく僕が酔いつぶれて路上で嘔吐してしまったので場がしらけ解散となってしまったこと。僕はそのあとの記憶がなく、気づいたら自宅にいたこと。


 マスターは「それは実に大変なことで」と、なかば呆れたように言った。しごく真っ当な反応だ。そして彼は「そういえば」と続ける。


「沙良ちゃん……。あの、彼女はいつもここで『沙良』としか名乗らないものですから、福地さんという苗字は存じ上げませんでした。沙良ちゃんも、あなたが酔っていらした夜にはそうとう酔っぱらっているようでした」


「その時、福地さんは誰かと一緒だったんですか」。僕はたまたま地元の中学が同じでたまたま彼女の訃報を聞いて、たまたま彼女が最後の日に辿った道のりを葬式の噂話で聞いただけだというのに、マスターに食いつくようにそう尋ねていた。僕は、福地さんの死に少なからぬ動揺を感じていた。


「いいえ」とマスターは顔をゆがめながら言った。「沙良ちゃんは一人でした。でも、しきりに独り言を言っていました。いつもはそんな風に酔っぱらう子ではないんですけれどね。たとえ酔っぱらうとしても静かなもので、自分で限界を感じたらそっとお勘定をして帰っていました。たしかに男性と同席されることも多かったのですが、たいていは一人で、スマートに飲んでいましたから」


「その、彼女の独り言とはどんなものだったんですか?」僕は、好奇心とも切迫感ともとれない感情でそう尋ねた。


「さぁ、酔っぱらっていたようですからよく聞こえませんでした。『くだらない』とか『ツキがない』とか、そんな悪態をついていたようにみえましたが」とマスターは言った。そうして「あぁいう亡くなり方をしたのは、本当に残念なことです」と付け加えた。


 僕はただ、そうですかと言いアイラ・ウィスキーを啜る。二人の間に沈黙が戻ってきた。その沈黙には空漠があり、そこには何ものかがまだ入り込む余地があるように思われた。


 僕は一杯で引きあげるのも悪いと思い、二杯目を何にしようかとマスターに問いかける。彼は酒棚を眺めながらふと立ち止まり、「そうだった……」と言いながら、僕の目の前に一本のボトルを置いた。


「これは……今日のおすすめでしょうか」と僕はその淡い緑のボトルに触れながら訊いた。

「正確には、おすすめとは言えません。召し上がる方は少ないですからね。これを前回開けたのは、ちょうど二週間前……。沙良ちゃんが来たとき、まさに彼女が飲んでいました。ソーダで割ったほうがいいんではないか、と勧めたのですが、彼女はずっとストレートであおっていました。今思えば、彼女にしては珍しいことです。ふだんはデュワーズのソーダ割、あるいはストレートで飲むにしてもアードベッグしか召し上がらないのですから」


 マスターはそこまで説明すると、取り出してきたボトルをしげしげと眺める。ボトルには「CHARTREUSE」と書かれているけれど、僕には読み方がわからなかった。


「いささか、喋りすぎたようです」とマスター。「本来はあまり、他のお客さまのことをぺらぺらと喋るものではないんです。すくなくとも私はそう考えているし、それがバーテンダーというものだと思っています」。僕は彼の考えを尊重し同意を示した。


「僕もその、緑色のを飲んでみてもいいですか?」と僕が訊くと、マスターは「是非どうぞ」とボトルをカウンターに据え、テイスティング・グラスを取り出した。


「あなたもストレートで飲んでみますか」と訊くマスターに、僕は頷いた。マスターも一緒に飲むよう促したけれど、彼はまだ先ほどの一杯があるからと遠慮した。


 目の前に出された薄緑の液体を眺めていると、僕も福地さんが最後に過ごした夜のなかに入り込めるような気がした。それを手にとり、僕は液体の温度を指先で感じながら香りを吸い込んでみた。広大な草原を箱庭に詰め込んだかのように凝縮された世界が、一杯のテイスティング・グラスから漂い出た。


 一口、僕はあの夜に吸い寄せられるかのようにそのリキュールをストレートで飲んでみる。「うまい」と口をついて出たことばは、思いのほか大きな声になってしまう。


「うまいですか」と、マスターが軽く笑いながら言う。


「えぇ、うまいです。とても」僕は下唇に残った風味を舌先で遊びながら答えた。


 僕が「今度はソーダで割ってもらえませんか」とマスターに伝えると、彼は「では私もいただきましょう」と言いながら手元のウィスキーを飲み干した。


 マスターが再度緑色のボトルを手に取りスクリューを開けたとき、僕はその金属が擦れる音を爆発的な大きさで知覚した。その直後すべての聴覚は失われ、僕のなかに夜が満ちてきた。無音の店内で注がれ続ける緑色のリキュールをみつめていると、先ほど飲んだ一杯の香りが腹内で止めどなく反芻されていく。草原の景色はひと時にして、淡緑の闇へと変化した。


 店内に、唐突な冷気がやってきた。僕はふいに身震いをして後ろを振り返ると、誰かが店の扉を開けたのだと気づく。中洲の喧騒やきらびやかな灯りは遠のき、冷ややかな闇だけが店内に忍び込んできた。こうして、狭間の扉は幾度も開かれるのだ。閉じてはまた開き、そこに光とも闇ともとれぬ曖昧な空漠が生まれ続ける。月夜に生まれる淡い闇のゆらめきは、いつでも僕たちを待ちうけている。

小宮山剛

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