• 小宮山剛

慶應義塾大学卒業時の随想~ギャツビー超克~

最終更新: 2019年4月23日

4年間の大学生活を終え、今僕の頭に浮かぶ、というよりほとんど押し付けられるような現実性と存在度をもってめぐり続けるのは、Fitzgeraldの主著The Great Gatsbyの結末部だ。


-tomorrow we will run faster, stretch out our arms further... And one fine morning-

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.


「明日こそはもっと早く、手を投げ出して走るんだ。そしていつかの朝日に・・・

それが、僕たちが進んでいるわけなのだ。まるで流れに逆らうボート、とめどなく過去へと流されるもののように」(拙訳)


・・・この一節で僕が、どうしても忘れられずに、これを一度読んでから人生のなかでの節目ごとに思い出してきたのは「まるで流れに逆らうボート、とめどなく過去へと流されるもののように」「手を投げ出して走る」というところだ。


ボートが流れに逆らう、ということは、乗り手は下流のほうを向いて、上流に上ろうとして汗を流しているわけだ。ここで川の流れを「時」として考えると、その流れは出生(一人の、人間としての人生で考えると)を源流として、終末の大洋、死の海まで続いている。よくある喩。


この生の船と言うべきか、死の船というべきか、というボートは、人生そのものだ。人は生きながらにして死につつあり、その境界はいつだって曖昧模糊としていると僕は信じているし、だからこそ河口と海の水はつながっている。辛い辛くないの違いこそあれ。


さて、ボートの乗り手は河口を、そして海のほうをむいて、上流へと、流れに逆らいながら漕いでいる。つまり彼は人生として未来のほうを向きつつ、過去へ過去へと進んで――いやそれは進むというには厳しすぎるほどの難航、時間への挑戦なのだ。この乗り手は言うまでもなく小説の主人公Gatsbyを思い起こさせるし、人生の過去を取り戻そうとした彼の行いに照らしても間違いはない。彼は時間を超えた。過去はやさし、と時間の流れに逆らい、人としての人生においては終末を向かされながらも、肉体では到達できぬ人生の河の領域において、過去を取り戻したのだ。あるいは、そういう希望がこめられた文章であるとしてもよい。僕はこの文章から、過去を取り戻せる、過去こそ人が帰り着く寄る辺なのだ、と勇気づけられたんだな。


・・・ここまでの文章について、違和感を覚えることも、いたしかたあるまい。僕が自分の人生についてかくのごとく、まるでその時間を操る、いやもう言ってしまえば捻じ曲げることができるかのごとく語ってしまうことは、青年期にだけに許された傲慢、真実への怠惰、生の浪費、いかなる叱責をもってしても言い尽くせないほどに乱雑なインチキ言葉のアトランダムな応酬、そんな程度にまで趣味のわるい乱れ騒ぎというよりほかないのだから。


今や僕は大人にならなければならない。過去へ過去へと遡れると信じていた似非青年ジェイムズ・ギャッツのあの質問(Can't repeat the past!?)に対して僕は、傲然たる態度でもって「そうだ、君、友だと思っていうが、君は過去には、いや未来にだって行けはしないんだ。それどころか、君は一体、何者として行為することもかなわないはずだ、そうだろう?」と言わねばならない。これが僕の決別であり、インチキをインチキによって塗り固めていると思われていた世界への突入、いや埋没である。それは、思ったよりも冷ややかな興奮を伴っていた。


僕は学生という青年期を終え、言葉のうえでは個人というものを大切にしているが、いやがおうにも自分の生命と対峙することの意味矮小を感じずにいられなくなっている。たとえばそう、卒業式での塾長の話はこうだった。


清家現塾長は、おおまかにあのお話を概略させてもらうならば、実学という鋭敏かつ実直な指針をもってして、公智をよく知り(それを体現できるという意味で)、周りとは一線を画する目を持ち奴雁のごとく社会情勢を見渡せ、とおっしゃった。あっぱれ、ブラボー、アンコールである。素晴らしい概説的福澤諭吉論、さしずめ『文明論之概略』ベースの割りものといったところだろう。


だがこの言葉よりも、入学式の安西前塾長のお言葉のほうが、僕の意識によく根付いている。彼がおっしゃるには、人生には三つの喜びがあり、それらは、出会いの喜び、学びの喜び、自己発見の喜び、だという。これが僕にはたまらなかった。それらはご自分のお言葉であるにもかかわらず、万人のお言葉だった。どういうことかと言えば、きっと塾長はこの三点の喜びを見出すまでに、幾多もの、というに留まらず、人生すべての経験、観念、想念、記憶・・・に基づいた思考回路をつくっておられたのだと思う。それは精製された万人の記憶、大記憶。それが個人の形をもって表出した言葉なので、なに難しげな言葉でもなく、名著の引用でもないのに、僕の足元からつむじまでに浸透してしまったのだろう。僕はこの四年間、三つの喜びを絶えず追いかけていた、と大げさに言ってしまったところで、なんら罪悪感はないというほどである。


僕はこの考えに至るまでに、二人の塾長のお話をお聞きしなければならなかった。四年前がなくてはならなかったし、その四年後がなくてもならなかった。過去は未来を変え(作用するという意味で)未来は過去を変えた。


未来は過去を変えるのか。過去が変わるのか。これは、とある条件が事象に後付されて説明されたことによる、主観的心象の変化ではない。過去に未来が作用し、事象、想起実行の運び、希望、その他あらゆる、もどかしい言葉を使えばその「世界」が変わってしまうということだ。過去のために未来があるという、時系列の河の逆流だ。漕ぎ手が河を遡っているなどという生易しい話ではなく、その水そのものが、すべての粒子が一度氾濫し、また形を取り戻し、河口側からなにかの手の平で打ち付けられたかのように、その上流までもを飲み尽くす勢いで、遡っていくのだ。上流のほう、一度落ち着いたかにみえた、いやむしろ氷ついて固着していたかにみえた流れは高い音をたてて崩れ、いまや液体のゆるやかなしなやかさで前後左右にうごめく。


と、ここで僕はある過ちに気が付く。なぜ河なのだ。それはどこかの作家がとある小説で描いただけで、それは僕の宗教ではない。僕の流儀、思想、観念、疑念、希望、貪欲、眼球、そのいずれでもない。僕であるとどうじに、それは他人のものだ。いまや僕は過去にからみつこうとする未来を許すべく、川の両岸を削って、そこら中を水浸しにしてみる。今やすべては水の中、ここで初めて陸が潤い、事物が明晰になってくる。つまるところの答えは、時間などなかったのだ。


僕らは時間の流れを、時計をみて、砂の流れをみて、恋人の退屈そうな顔を見て、親の死をみて、犬の床ずれをみて、川の流れ、落ちるリンゴ、ぷつりと終るラッドウィンプス、やっと始まる校歌斉唱・・・何者かをみて、必死の義務感に駆られて感じようとしている。時間の流れを恐れているようで、僕らは時間を愛おしんでいる、というよりもはや、体を結びつけ合っていなくては震えがおさまらなくなった19歳の男女のように、依存関係にある。どちらかが出っ張っていて、どちらかがへこんでいて、見事に合致したというわけ。


しかし真実はこうだった。僕らは時間を作っていた。さもなくば、時間が僕らをつくっていた。この二択にひとつしか道はなく、その説明は人間がいかに時間のおかげで安住に浸っているかというところに依ろうではないか。我々は時間を欲しており、それは、時間が麻薬のような、たばこのような、起き抜けのマルボロ、眠る前のキス、食事前の手もみ、といったあらゆる依存物質、とりわけ生来の根強さをもったものとして存在「させられた」のだ。そう思い込まれている。


僕らは四次元を無理やりに想像して喜んでいるが、今や述べられるべきことは、過去も未来も現在も、そしてすべての瞬間が、今ここの一点にあるということである。いや、この言い方もまだ、時間の概念を抜け出ていない。いうなればこの文章を書いている間僕が一度も時計を見ていないような状態、いつでも過去の文字を消せて、訂正できる状態、そしてその先に書くことが思い浮かぶ状態、そういうことである。今や分散した瞬間の集合こそが、時間と名付けられた空間の真実として目の前にある。だから我々は時間が過ぎ去るということを恐れることはない。過去は過ぎ去りなどせず、目の前に、あるいは頭の後ろにあり、我々はそれをいつでも自在に変えることができる。過去は繰り返されるのではない。ただ繰り返されるのではない。過去などない。時間に質などなく、そして時制がないことは時間の崩壊を招く。それは空間になった。移動でき、名もないものが名もないものに作用する空間。困るから、時間として残しておこう。


今やぼくは、川の流れというものを忘れ、丸い水球となった、時間というべきものを見つめ、それが生来の親友のように思えてきた。ぼくはそのなかで、万人になれる。その緑緑たる水の中で、ぼくは殺し、殺される。ときには奪い、ときに奪われ、ひとりだけの神経衰弱を楽しんでいる。自分で隠して、自分で探す。二人になって、三人になって、より多くと億になり兆になり、ぼくは今や明らかになった。


では、時間というべき空間で、その行き来の方法は。僕と僕とは、どのようにして関連付けられるのか。その方法は、あらかじめ僕が隠しておいたのだろう。たまにのぞかせてみて、僕自身がせせら笑う、僕自身を。僕を生かすのも僕なのだし、未来の僕は過去の僕を蹴飛ばすことも、なめてやることもできる。今は便宜上「僕」と言っていて、すごく傲慢な言い分に聞こえるかもしれないが、大事なことは、この空間に生命は一つしかないということだ。それがすべてほかの生命を創ったとか、そんな言い分はやめてほしい。それは不動の動者、迷わぬもの。僕らはそれ自身であると同時に、それに生かされている。


だから今や、時間など「知るに及ばぬ」ものなのだ。時間は流れなどしない、もともと無いのだから。そのことで不安を覚えるなら、それは自己の傲慢、過剰の自意識を信じ込んでいるというものだ。そんなものは便宜上のお遊びで、ただひとつあるものは不動の空間、ざわめく微粒子だけだというのに。僕らはそこに滞留する。それだけなのだから、流れていくところもない。いく、ことなどなく、いる、こともない。先も後もない。すべてが否定などされない。それは、完全に決定され、かつ完全に新しい事象なのだ。

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