• 小宮山剛

ふたご座流星群によせる潮騒

最終更新: 2019年4月23日

静岡駅から石田街道を南下すれば、星を集めるまでにそう時間はかからない。駅周辺の光源はひとつまたひとつと姿を消していき、星々は私の視界のうちに舞い下りてくる。少々不遜な言い方ではあるが、ただ南へ南へと歩いているだけで星が見えやすくなってくる様は、ひとつの人間にそうした感興をもたせてくれるのだった。


「ふたご座流星群をみにいこう」と誘ったのは、静岡にいる三人組であった。男1人に女2人、自動車で高台へ上り寒空のした、言葉も交わさずに闇夜の晴天を眺めていようというのだから清々しいものである。生憎私はその時分神奈川に出ていたものだから、青春の走馬灯ともいうべきお誘いを断らざるを得なかった。


神奈川での所用はかなり長引き、反故にしてしまった高速バスの切符を千切り捨て、私は東海道線で鈍行に揺られ帰ることにした。もったりとした車両の揺れと空気に眠気を隠し切れず、はたまた停車駅をむかえるたびに刺し入る冷気に身を震わせ、ようやく小田原までやってきた。手には三島の『潮騒』。


遅滞する電車に乗りながら、なんだか自分だけふたご座流星群との邂逅にあやかることの叶わぬことが、ひどく不条理に思われてきた。そこで国府津を過ぎたあたりから「今日はきっと、駅から家までを歩き通し、その間に数多くの流れ星をみるのだ」と決意し、確信していた。


石田街道を南下すれば、星を集めるまでにそう時間はかからない。甲羅本店のあたりを過ぎればもう、星々は散在することをとりやめ、キュビスム絵画のごとく一体の模様と化すのであった。私はきっと口を結んで夜をみつめ、ハイ・ライトに灯りをともす。若いウィスキーのような、渋みを覚えさせることを忘れない爽やかさが口の中に広がり、一方で泥濘のような粘り気のある煙が肺を満たす。呼吸が深く、規則的になり、星の下で僕は潮騒を感じていた。


『潮騒』は三島文学において、異例的爽快感を醸していると言う人もあろうが、私はかの作品のプリミティヴなどよめきに、読者としての不安すら覚えている。ギリシア古典に発想を得たといわれるこの作品が青春描画であると言われる所以のひとつには、新治と初江が姦通せずして生まれながらの姿で抱き合っていた場面が引き合いに出されよう。

しかしながら、初江はここで新治に促されるまま、真っ暗闇のなか燃え盛るたき火を大股で飛越し、新治の胸へ飛び込むのである。一糸まとわぬ二人の間で取り交わされたこの原始的契約行為としての一大跳躍は、古代のうごめきが炎に燻され蘇るかのような不穏な胎動すら感じさせる。


私は手中にある炎、小さな灯で星を焼いてみた。いまや南中央通りを越え南下を続け、一旦まとまりかけた星々のゲシュタルトは解れはじめていた。ジャンボ・ジェットの主翼灯がとある星を切り裂き、街道沿いの家で一匹の犬が思惑ありげな鳴きごえを上げた。


咆哮。そう捉えるにはあまりに弱弱しい、小市民の一声である。しかしながらその一時、私には成層圏のすぐうえを周回するデブリまでもを捉えられるような気がした。開花のとき、一閃のきらめきが視界をクロスする。いくつもの残影がほとばしり、遠近問わぬありとあらゆる星々が一枚の絵画に収まった。無言の対話が夜の荒野で交わされる。ささやきは押し寄せ、また返し、誰にも知られぬまま永劫の彼方へ消えいった。これが、流星の残響である。

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