• 小宮山剛

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とD. H. ロレンスの薔薇

最終更新: 2019年4月23日

昨日『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(以下『世界の終わり』)を読了し、「春の熊」の興奮とはまた別に、またこの小説が他の一般読者に与えたであろう衝撃とは別に、いかにも個人の秘密めいた範囲でひそひそと発見をした。


まず前置きとして『世界の終わり』は認識の内部で時を想像することによる、認識外の「時の凍結」を幕引きとしている。こういう言い方をすれば、小説の大団円を語っても差し支えはないと思う。


主人公は「眠りがきた」と言い人生の幕を降ろすのであるが、この様子と、彼の認識内部の世界としての「世界の終わり」が、私に一点の発見を思わせる。「世界の終わり」というからには忘却と崩壊の最後かと思いきや、そこは完全の均衡が保たれた、永遠の「場」なのだった。

終末におとずれる、永遠かつ完全なる均衡の一点。この瞬間の描写のために、幾人もの芸術家が人生を削った。彼らが今、その一点にたどり着いたのか、僕は知らない。ただ、イギリスの詩人・小説家D.H.Lawrenceがその完全なる一点を描写するために「死の舟」という詩を創作したことは知っている。


ロレンスはその詩のなかで、死出の旅としての航海を物語り、そのなかに「眠り、夢、忘却、目覚め」という、永遠の一点に到達するまでの道程を描いた。見逃せないことに彼は永遠の一点を、完全なる均衡のとれた瞬間だと述べている。


以上はロレンスの詩集、手記、論考を勘案したうえで総合的に導きだした一案だということを加え書きさせていただきたい。ともかく大事なことはデュラン・デュランでもなく魂のルフランでもなく、死生観を語るうえで、完全なる一点かつ永遠の瞬間、というものを持ち出す芸術家がその他大勢いるということである。


しかし問題は「そんなのありえませんが」という冷ややかな目線と、このディジタル・ストーム社会では役に立たないものを見るような、生の世界に充足する人々の態度である。死の世界などない。そう言い切ることのほうが、我々「現実」の認識に生きるものとしては確実な合理性をもっているし、「目の前のガラスを叩けば割れる」などという意識がある以上、それはまさしく必要な認識ルールなのである。


そんな現実、ハードボイルド・ワンダーランドにおいて村上は、完全なる一点としての永遠の瞬間にたどり着くための「デバイス」そして道程を、あくまでクールに描いたのである。ロレンスがエトルリア文明の墳墓に完全の瞬間を背負わせたのと正反対に、村上はそれを「ダニー・ボーイ」であるとか、ピンクの豊満な女の子であるとか、腕輪とかにのせたのである。


もっと言えば「リアル」を精密に受容している(であろう)機関である脳をその仕掛けの根幹として、そして肉体の永遠保存をマジックのタネとして、あくまで足取りは軽く、その一点にたどり着いた、いやむしろ最初からその情景をたたえた「場」を提示していたのである。

そして村上の「完全」は、限定された「場」のうちでの永遠性であったという点において、ある種の固着であると言える。つまり完全であり均衡を保っているからには静謐な停滞状態が保たれねばならず、その条件を「世界の終わり」はそなえている。そういった意味でも、一点の停滞状態でありながら、永遠性をもっているということが描かれた世界なのだ。


僕はロレンスの完全なる瞬間を「夢のなかでの目覚め」、それも元の世界とは異なる場所への目覚め、というように考えていた。『世界の終わり』の主人公は「眠りがきた」と言い「世界の終わり」へ進入した(と思われる)が、これもまた日常の眠りとは違う眠りへの確信、そして日常の夢とは異なる夢、すなわち認識内部の世界への確信、という点において、フェーズの高まった夢であると言えよう。夢だろうが現実だろうが、それは認識の問題なのである。


村上はこういうように、死後に永遠があるという時の概念への勝利の可能性を、あくまでストラテジックに、あくまでフィジカルに導いたのである。その点で僕はこれまでになく勇気づけられた思いがして、ウェスト・エッグのあの語りやさんに、バシリと背中を叩かれた思いである。もちろん、主人公の肉体ありきでの認識が作り出す「世界の終わり」であるからには、世界---いやここは便宜的に地球と言おう---が本当に終わってしまったなら、その認識も消し飛んでしまうことになる、はずである。


ことは今、肉体としての脳による認識の存在への疑念が問題となっている。あまりにも強力すぎるこの脳認識によって、我々はその喪失を恐れざるをえないのである。脳がなくても、すなわち死んじまっても認識が残るのならば(それを人は魂という)、時との争いなど古今東西ありえないはずなのだから・・・


追記的に申し上げると、この小説を読んでいる間、僕が小説に呼応し、小説が僕に呼応している、そんな感覚をおぼえた。実は小説を読みながらメモをとるのが僕の癖なのだが、僕が『世界の終わり』に対して疑問を抱いたとして、それをメモする。すると2、3行後にはもう答えが用意されている、といった具合である。また、僕が文章を読んでいくなかで思いついた概念をメモしていると、次のページに全く同じ概念が、あたかも引き出されたかのように登場する。


こうした身震いものの体験も、小説を読むなかでの楽しみであった。是非、メモをとりながら物を読むことを、僭越ながらオススメしたい。

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